『徳島が高知県だったころ』

昼食後に文化の森にある徳島県立文書館で開催されている企画展「徳島が高知県だったころ」を観に行きました。文書館に入るのは初めてです。

この建物はかつての徳島県庁を移設したものです。

入り口には企画展の立て看板が掲げられており、企画展は文書館二階の小さな部屋で開催されていました。

最初に明治4年の廃藩置県から県の統合や分離が何度も行われたとされています。廃藩置県によって現在の都道府県の形が出来上がったと思っていましたが、試行錯誤が繰り返されていたことが分かりました。

四国四県がどのような経緯で今の形に落ち着いたのかを示したパネルが掲示されています。

【明治4年12月(右上)】

徳島県は名東県という名前で一つの県として存在しており、淡路島もそのほとんどが名東県に含まれています。香川県と高知県は現在のままで、愛媛県が松山県と宇和島県に分かれています。

【明治6年3月(右中)】

1年4ヶ月後、香川県が名東県(徳島県)に統合され、松山県と宇和島県が統合されて愛媛県になりました。

【明治8年10月(右下)】

2年7ヶ月後、香川県が名東県から分離され、再び香川県として独立しました。

【明治9年9月(左上)】

11ヶ月後、香川県が愛媛県に統合され、名東県から淡路島が切り離され、名東県は高知県に統合されました。

【明治13年4月(左中)】

3年7ヶ月後、高知県から名東県が分離され、徳島県と名前を変えました。

【明治21年12月(左下)】

8年8ヶ月後、香川県が愛媛県から分離され、現在の四国四県の形になりました。

明治9年9月に徳島県(名東県)が高知県に統合された時、元の名東県は「高知県阿波國」と呼ばれていたようです。

様々な文書も展示されていて、名東県の行政事務は元の名東県庁で行われていたことが分かります。徳島と高知の間には四国山地があり、交通の便は極めて悪かったでしょうから、実質的には別々の行政区画となっていたと思われます。

名東県が高知県に組み込まれた時(明治9年)の行政文書です。

明治13年に徳島県が高知県から分離され、単独の県となったために県庁を置き、県印を定めた公文書です。


廃藩置県後に県の統廃合が目まぐるしく行われたことが良く分かりました。何よりも当時の県民は大変だったことでしょう。

明治11年の借用書と明治13年の卒業証書です。どちらも「高知県阿波國」と記載されています。