世界遺産登録20周年記念 琉球歴史ロマン探訪バスツアー

座喜味城址、中城城址、識名園を巡る沖縄バスの観光ツアー「世界遺産登録20周年記念 琉球歴史ロマン探訪バスツアー」を申し込んでいたのですが、コロナ禍の影響で1ヶ月延期されて3月7日(日)に開催されました。このツアーもT部長に教えていただきました。

今回のバスツアーは沖縄バス本社ビルを9時30分に出発し、座喜味城趾→沖縄ライカム(昼食)→中城城趾→識名園を巡る予定です。座喜味城址も中城城址も識名園もまだ行ったことがなかったのと、琉球歴史研究家の上里隆史さんの解説が聞けることを楽しみにしていました。上里さんは沖縄の歴史に関する著書も多く、2020年1月に放送された「ブラタモリ×鶴瓶の家族に乾杯 新春!沖縄スペシャル」で案内役を務められていて、ブラタモリファンの我が家でも録画して何度も楽しんでいました。


「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産登録されたスポットは以下の9カ所だそうです。今回の三ヶ所以外で行っていない場所は玉陵だけになりました。首里城には何度も行っているのですが、玉陵には行きそびれています。

  1. 首里城跡(しゅりじょうあと)
  2. 中城城跡(なかぐすくじょうあと)
  3. 座喜味城跡(ざきみじょうあと)
  4. 勝連城跡(かつれんじょうあと)
  5. 今帰仁城跡(なきじんじょうあと)
  6. 斎場御嶽(せーふぁーうたき)
  7. 園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん、首里城公園内)
  8. 玉陵(たまうどぅん)
  9. 識名園(しきなえん)

ただ残念なことに今日は生憎の雨模様。琉球石灰岩の階段には気を付けなければなりません。


まず最初は15世紀初期に築城家として名手だったといわれる護佐丸ごさまるによって築かれた座喜味城趾へ。

座喜味城は、中山の統一国家へ向けた争いの多い最中の1420年頃に読谷山按司・護佐丸によって築かれました。護佐丸は当初、座喜味の北東約4キロにある山田グスク(現恩納村)に居城していましたが、北山城(今帰仁城)攻略に参戦した頃に、敵からの防御や長浜港を控えた地の利を考えて高台にある 座喜味に築城したとされています。座喜味城の城壁を上空から観ると、いくつもの曲線が組み合わされるようにできています。この曲線構造は、現在の黒部ダムのようなアーチ式ダムの構造に似て おり、当時の築城技術の高さをしのぶことができます。門は中央にくさび石をはめて2つの石をかみあわせることで造られているアーチ石門が特徴で、くさび石 を用いる方法は、他のグスクには見られません。また、石材は地元で採れる琉球石炭岩が使われ、その積み方は、「野面積み」や「布積み」が進化したとされる 「あいかた積み」手法を用いられているところが多くなっています。これらは、護佐丸が優れた築城技術を持っていたことを表しています。
座喜味城跡は、1945年の沖縄戦中は日本軍の高射砲陣地として利用されました。その後は米軍のレーダー基地が設置されましたが、1956年に琉球政府の 重要文化財に指定され、日本復帰の1972年には国指定史跡となり、1973年から1985年の間に城跡の発掘調査や城壁修理が進められて再生していま す。そして、2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の資産のひとつとして世界遺産に登録されました。

階段を上って松並木を抜けると石垣が見えてきます。

前を歩いているのが上里さん。城の入口はアーチになっています。

しっかりした作りのアーチであることが判ります。

アーチ上部をよく見ると楔状の石が埋め込んであるのが判ります。白くぼやけて写っているのは雨粒。

アーチを下から見上げたところ。かなりの厚みがあります。上里さんのお話ではこの辺りの地層は国頭マージと呼ばれる粘土質の赤土だそうで、地層が柔らかく石の重みに耐えられないため、地面を掘り下げて石を敷き詰め、その上に城壁を築いているとのこと。城壁が厚いのも石の重みを分散させるという意図があるのかもしれません。

アーチを潜った後で振り返るとこんな感じ。上部を見ると城壁がいかに厚いかが判ります。

最初のアーチを潜ると正面にアーチがあり、左側に別の道があります。

一見先に進めそうですが、この先は行き止まりになっていて、袋小路に入った敵を右側の城壁の上から攻撃して殲滅するための仕掛けだとか。

正面には二つ目のアーチ門があります。

こちらもかなりの厚みがあることが判ります。

二つ目のアーチを潜ると城の中心部が現れます。

左側は曲線を描いた城壁が見えます。右側には建物跡(礎石)が残されています。

ここには護佐丸の子孫の座喜味親方盛譜が江戸上りした際、無事に戻ってこれたことに感謝して建てたという灯籠(寄進燈籠)が残されていました。

座喜味城を出る時に上里さんの案内で入口のアーチ横にあった拝所を教えていただきました。そういえば城の中には御獄も拝所も見当たりませんでした。元はどこにあったのか判らないということでした。

座喜味城を見た後、入口にあるユンタンザミュージアムへ。

座喜味城の模型があり、全体のイメージを掴むことができました。

三山時代の勢力図もありました。


昼食は沖縄ライカムで自由行動。写真はライカム入口のシーサー。


昼食後は中城城趾へ。ここでは地元の小学生が案内役を務めてくれました。学校で護佐丸や中城城について勉強しているとのこと。堂々とした解説でした。

琉球にはおよそ300余りのグスクがあったといわれていますが、中城城跡は去る大戦の戦禍による被害は小さく、県内のグスクの中でも最も原型を留めているため、歴史や琉球における築城技術を知る上でに極めて高い価値を有しています。
中城城の築城年代は不明ですが、14世紀後半に先中城按司が数世代に渡って築き、1440年頃に座喜味城主「読谷山按司:護佐丸」が王府の命令により移ってきて、1458年に自刃するまでの間に、北の郭、三の郭を当時の最高の築城技術で増築したと伝えられています。
護佐丸滅亡後は、一の郭内に間切番所や中城村役場が置かれ、1945年(昭和20年)4月上旬に戦争によりその施設が焼失するまで中城村の行政の中心となっていました。

こんなに大きいとは思っていませんでした。作られた頃の状態を保っているとのこと。

こちらが正門。両側の石垣を渡すように木で作られた門があったとのこと。

左右段違いの階段がありました。何故このような作りにしたのかは判っていないとのこと。左側は歩幅が大きい人用、右側は歩幅が小さい人用かもしれません。

拝所もありました。

ここは「小城ノ御イベ(くーぐすくのおいべ)」と呼ばれる拝所だそうで、通称を「久高遙拝所(くだかうとぅし)」というそうで、久高島を望むことができるそうです。

雨乞いをする拝所も設置されています。

アーチを抜けると正殿跡に入れます。

石が規則的に並んでいました。これは石垣を修復しているところで元のとおりに組み上げるために順番を間違えないように並べているのだそうです。

ここにも拝所が。

石垣から海を望むことができます。真ん中に浮かんでいるのが久高島です。

知念岬の方角には斎場御嶽もあります。

石垣から下を見ると絶壁になっています。上里さんのお話では昔はここに300mを越える山が聳えていて、それが陥没して崖になったとのこと。俄には信じられない光景です。

このアーチを抜けると裏門に向かいます。

ここは「大井戸(うふがー)」と呼ばれる場所。小さな窓のような穴が空いています。この穴は南を向いているのだそう。

裏門のアーチ。

裏門を抜けたところ。このアーチも立派なものです。

帰り道には龍がいました。


ツアーの最後は識名園に。

識名園(俗にシチナヌウドゥンと呼ぶ)は、琉球王家最大の別邸で、国王一家の保養や外国使臣の接待などに利用されました。1799年につくられ、1800年に尚温王冊封(さっぽう)のため訪れた正使(せいし)趙文揩、副使(ふくし)李鼎元(りていげん)を招いています。
王家の別邸としては1677年、首里の崎山(さきやま)村(現在の首里崎山町)に御茶屋御殿(ウチャヤウドゥン)がつくられました。現在の首里カトリック教会がある所です。首里城の東に位置したので「東苑(とうえん)」とも呼ばれ、その後につくられた識名園は、首里城の南にあるので「南苑(なんえん)」とも呼ばれました。
識名園の造園形式は、池のまわりを歩きながら景色の移り変わりを楽しむことを目的とした「廻遊式庭園(かいゆうしきていえん)」です。「廻遊式庭園」は、近世に日本の大名が競ってつくるようになった造園形式ですが、識名園では、「心」の字をくずした池の形(心字池)を中心に、池に浮かぶ島には中国風あずまやの六角堂や大小のアーチが配され、池の周囲には琉球石灰岩を積みまわすなど、随所に琉球独特の工夫が見られます。
識名園はかつて、春は池の東の梅林に花が咲いてその香りが漂い、夏には中島や泉のほとりの藤、秋には池のほとりの桔梗(ききょう)が美しい花を咲かせ、「常夏(とこなつ)」の沖縄にあって、四季の移ろいも楽しめるよう、巧みな配慮がなされていました。
1941年(昭和16年)12月13日に国指定「名勝」となりましたが、1945年(昭和20年)4月、第2次世界大戦の沖縄戦で破壊されました。1975~96年(昭和50年~平成8年)総事業費7億8千万円をかけて復元整備され、1976年(昭和51年)1月30日国指定「名勝」、2000年(平成12年)3月30日に国指定「特別名勝」となりました。
2000年(平成12年)12月2日には、ユネスコ世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)として登録されました。
指定面積は41,997平方メートル(約12,726坪)で、そのうち御殿(ウドゥン)をはじめとするすべての建物の面積は、合計で643平方メートル(約195坪)となっています


この池の水源は池の横にある「育徳泉」から湧き出た水だそうで、この泉には淡水藻「シマチスジノリ」が発生しており、国の天然記念物に指定されているそうです。


迎賓館でもある建物は「御殿(うどぅん)」と呼ばれており、多くの部屋が作られています。

池の中の浮島には六角堂が建てられています。上里さんのお話ではこの建物は大正時代に建てられたもので、以前は琉球風の東屋が建っていたとのことでした。

池の裏を上がっていくと展望台に出ます。ここからは海が見えません。上里さんによるとかつては眼下に田畑が広がっていたと考えられ、冊封使に沖縄の豊かさを見せたかったのではないかとのことでした。この眺めを褒め称えた碑が建っています。


今回のツアーは生憎の雨模様で眺めもあまり良くありませんでしたから、改めて行ってみようと思います。