浦添ようどれ・浦添城趾

連続休暇一日目。
T部長に案内していただいて浦添ようどれと浦添城趾を歩きました。

【駐車場→牧港川遊歩道→普天満参詣道】
浦添大公園の北側の駐車場に車を止めて、牧港川まで降りて遊歩道を歩きました。
牧港川のせせらぎを聞きながら遊歩道を歩いていくと、沖縄ならではの植生と珊瑚礁が隆起してできた琉球石灰岩層を見ることができました。
牧港川を覗くといたるところに石灰岩の塊があり、琉球石灰岩層を浸食しながら流れていることが良く判りました。
牧港川をまたぐ普天満参詣道には石橋が架かっていました。
普天満参詣道は普天満宮に参詣するために浦添グスクから引かれた道だそうです。時の権力者の力がどれだけ大きかったかが判ります。石橋を渡ったところには街道であることを示す石碑が建っていました。


【ワカリジー→浦添ようどれ→浦添城趾→前田高地→浦添グスク・ようどれ館】
普天満参詣道を上って浦添ようどれを目指す予定だったのですが、上り坂を通り過ぎてしまい、図らずも浦添城跡霊園からワリカジーを見ることができました。上の地図では前田高地平和之碑からも行けそうですが、今は進入禁止になっています。
浦添ようどれは浦添グスクの北の崖の中腹に作られた墓で、「ようどれ」とは夕凪を意味する言葉だそう。沖縄戦で破壊され、1996年から2004年にかけ発掘調査が行われ、2005年に復元されたそうです。
立派な石垣がありました。
ようどれの入り口である「暗しん御門(くらしんうじょう)」。かつては右側から突き出した岩盤を左側の石組みで支えていたようで、トンネルのようになっていたそうです。手前が一番庭と呼ばれているところで、この門を抜けると二番庭に入ります。
二番には「中御門(なかうじょう)」と呼ばれる石組みの門があり、その先に一番庭があります。
一番庭から見て右側(手前)が英祖王陵と考えられている西室になっています。琉球石灰岩に空いた洞窟を利用したことが良く判ります。
左側が尚寧王陵と考えられている東室です。
こちらの案内板は駐車場に設置されているもので、ようどれの全体像が良く判ります。右側には年表が、下の写真で戦前のようどれの写真と沖縄戦で破壊された様子が判ります。
浦添城趾では石垣の組み方を見ることができます。
浦添城趾は日本軍が首里防衛の前線と位置づけたことから、昭和20年(1945年)4月26日からおよそ15日間に渡って激しい戦闘が繰り広げられた戦場と化しました。標高140メートルもある琉球石灰岩でできた高地で、米軍は「ハクソー・リッジ」と呼びました。ハクソーはのこぎり、リッジは崖という意味で、琉球石灰岩の崖を「のこぎりのような崖」と呼んだのでしょう。いたるところに露出している石灰岩の壁を見ると、米軍の圧倒的な戦力を持っても占領するまでに15日もかかったということが良く判りました。右に見えるのが普天間飛行場です。
宜野湾から北谷まで見通せます。
浦添城趾には沖縄学の父と呼ばれている伊波普猷の墓がありました。「おもろそうし」(琉球王朝が編纂した歌謡集)の研究で有名な方で、石碑にも「おもろそうし」の文字が刻まれています。T部長から「おもろ」は「思い」という意味で、新都心とも呼ばれている「おもろまち」はここから名付けられたというお話をお聞きしました。「おもろまち」がなぜ平仮名なのかが理解できました。
琉球石灰岩にからみつく根を見ていると植物の生命力を感じます。
展望台でT部長に記念写真を撮っていただきました。服装や首に巻いたタオルを見ると2月の光景とは思えません。


【番外:昼食】
しっかり歩いた後はT部長お勧めの高江洲そばへ。
店の前は車の渋滞と入店を待つ客の集団が。
多くの沖縄そば屋にも「ゆしどうふそば」がありますが、T部長のお話ではこの店は昔、豆腐屋だったそうです。元祖と名乗るだけのことはありますね。ゆしどうふは大好きなのと、とても優しい味だったのでスープを飲み干してしまいました。
店の入り口に小田和正のサインと写真が飾られていました。


今日はT部長に大変お世話になりました。有り難うございました。