那覇大綱挽

国道58号線を封鎖して毎年行われる那覇大綱挽を観に行きました。

那覇大綱挽は、琉球王国時代の那覇四町綱の伝統を引き継ぐ、長い歴史を有する沖縄最大の伝統文化催事です。その発祥は、西暦1450年頃だとされています。地方の農村行事としての綱引きが、稲作のための雨乞い・五穀豊穣・御願綱を起源とするのに対し、町方(都市)の綱として、交易都市那覇を象徴する大綱挽です。
那覇は、古くは浮島とよばれた一港村でしたが、交易品を取り扱う御物城、親見世の設置、中国から渡来した久米村、天使館、在番奉行所(御仮屋)など公館の設置で次第に発展し、西村、東村、若狭町村、泉崎村の那覇四町と称される都市に成長しました。那覇大綱挽は、その那覇の発展とともに周辺の村々をかしー(加勢)として加え、なーふぁんちゅー(那覇人)の心意気を発揚する行事として成立してきたもので、沖縄の稲作文化を基礎にした沖縄独特の大綱挽です。
みーんな(女綱)、をぅーんな(男綱)をかぬち棒で結合させて、西東に分かれて挽きあう綱は、陰と陽の結合を意味し、人類繁栄を願う神話的行事ですが、古文書に「綱挽の儀は、国家平穏、海上安全の祈祷として挽き来たれ」とあるように、那覇四町綱は、例年6月ごろに挽かれていました。しかし、勝負に熱中するあまり喧嘩口論が絶えなかったところから、1812年(嘉慶17年・文化9年)那覇里主、御物城の命により『那覇綱挽規模帳』(規則集)が制定され、以後この規定により綱挽が実施されるに至りました。明治以降は、お祝い綱として幾度も開催されましたが、1935年(昭和10年)を最後に途絶えていました。戦後那覇市は、首里・小禄・真和志を合併して大那覇市となったところから、沖縄の祖国復帰の前年1971年、時の平良良松那覇市長により市制50周年記念事業として「10・10那覇空襲」の日に復活しました。
以来年々盛況となって、1995年ギネスブックによって「世界一のわら綱」と認定されるに至って、那覇大綱挽は、いまや世界一の綱挽として、那覇市民・県民の誇りとなり、沖縄の観光振興に大きく貢献する沖縄最大の伝統行事として定着しています。
現在では、綱挽参加者は、平和安寧・市民繁栄・商売繁盛・家庭円満・子宝などの幸福を願って挽き、市民にとっては綱を挽くことが「繁栄・幸福・団結」をはかるための欠かせないコミュニケーションのひとつとなっています。
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那覇四町綱之図(作者不詳 19~20世紀 縦93cm 横162cm)

国道58号の久茂地交差点を通行止めにしてまで行う綱曳きというのは他の県ではあり得ないのではないでしょうか。綱曳きが文化として根付いている沖縄ならではでしょう。久茂地交差点には私が務めるオフィスビルがあり、以前から58号線の久茂地交差点付近の中央分離帯(コンクリートブロック)は綱曳きがやれるように取り外せる仕様になっていると聞いていましたが、まさかここでやるとは思えませんでした。

早めに行ったつもりだったのですが、ゆいレールで県庁前から久茂地交差点に向かうと既に人が一杯で引き綱のそばには近寄れませんでした。しかたがないので本部席に設置されている大型モニターで様子を見ることにしました。

旗頭は見えるのですが、地名が書かれているもの以外はどの地区の旗頭かはまったく判りません。

事前に調べていなかったので綱曳き自体、どのように行われるのか判りませんでした。

東西から綱が引き込まれて真ん中で繋がれる様子はモニターで見るしかありませんでした。

結果はまさかの引き分け。綱曳きで引き分けになることがあるのかなと思っていたら、綱が切れたので引き分けになったとのこと。報道を観ると27万人が集まったそうです。綱曳きが終わったら綱が切り分けられると聞いていたので、人混みをかき分けて終わりかけの綱を分けていただくことができました。

この綱は自宅の玄関ドアに飾りました。


この18日後、首里城火災が発生しました。綱が切れたのはこの災害を知らせるサインだったのではと言われていました。