ビル・アトキンソン氏逝く

2025年6月5日にApple Computerが生み出したMacintoshやLisaの中心エンジニアとして活躍したビル・アトキンソン氏が亡くなりました。享年74歳でした。

ビル・アトキンソン氏(Bill Atkinson、William Dana Atkinson、1951年3月17日生まれ、2025年6月5日没)は1978年から1990年までApple Computerに在籍しました。Macintoshの前身であるLisaのGUIの設計・開発のメイン担当者となり、その後、1984年に発売された初代Macintosh開発チームの最初の30人の一人となりました。

彼はLisaとMacintoshの画像描画APIでありMacintoshのGUIの成功に不可欠であったQuickDrawを設計・実装しました。またLisaとMacintoshのユーザインタフェース(ダブルクリック、メニューバー/プルダウンメニュー、投げ縄ツール)などの主要な設計者でもありました。MacintoshにバンドルされたMacPaintも開発し、初期の画期的なハイパーメディアシステムであるHyperCardの概念を考案してそれを設計・実装したHyperCardによってプログラミングやデータベース構築がプログラマでなくてもできるようになりました。

彼がAppleにいたからこそ現在のウィンドウシステムの基盤が出来上がったと言っても過言ではないと思います。


個人的にMacintoshはなかなか手に入れることができませんでした。値段もさることながら、初代Macintoshはメモリ容量が128KBしかなくて日本語も扱えませんでした。二代目はメモリ容量が512KBに増え、発売元であったキャノンが独自に日本語ROMを内蔵したDynaMacが発売されましたが、JIS第一水準しか表示できないなどの問題がありました。その後、Macintosh Plusが発売され、メモリ容量が1MBに拡張されたことから日本語が扱えるようになり、標準OSとして日本語を扱うことができる漢字TALKが搭載されるようになって通常使用に耐えるようになりました。当時、徳島駅前にあったM電気商会に同級生のI賀氏が勤めていたこともあって、ここで初めてMacintosh Plusを購入しました。その後、Macintosh SE/30に買い換えてHDDを搭載し、自宅の電話回線(ISDN)を使った職場のMacintoshユーザーを対象にしたBBSを開設したりしていました。この頃のAppleはユーザーを大切にしていて申請するとβ版のOS等を提供してくれるなどの特典がありました。

その後も数々のMacintoshを使い続けましたが、Macintoshのソフトウェア的な仕組みを知りたくてApple公式の開発者向けドキュメントである「Inside Macintosh」を読んでプログラミングに挑戦しようとしましたが、オブジェクトという概念が理解できず、単独アプリの開発は断念しました。「Inside Macintosh」を読みこなすための参考書(「インサイドマック徹底ガイド」、「マッキントッシュの道具箱」など)も読みました。AppleはそのGUIを解説した「Human Interface Guidelines」などのドキュメントも準備していました。

HyperCardは簡易プログラムを作ることができるプラットフォームでした。HyperTalkという簡易言語を用い、XCMDと呼ばれる独自アドオンを作ることもできました。

私はプログラミング言語オタクなので様々なプログラミング言語を使っていました。ここにある本はMacintoshに関するものばかりではなく、仕事の効率化のために作ったプログラムの言語に関する本も含んでいます。

Apple関連の読み物としてはこんな本も持っていました。

これらの本は2年前に処分してしまいました。