桜坂市民大学の冬期講座『石獅子探しにでかけよう!(講座番号18)』に参加しました。講師は首里で石獅子の製作・販売を行う「スタジオde-jin」を経営されている若山ご夫妻。集合場所を尋ねると「當山集落センターの駐車場」とのこと。取り敢えずGoogleマップで住所を調べてナビに住所を入力して出発。メイン道路から集落の中に入っていきます。
石獅子探しのプロに導いてもらいながら、様々なかたちや顔を持つ石獅子から、その地域の歴史や文化を紐解いていきます。
参加者は我々夫婦を含めて総勢6名。若山ご夫妻のご挨拶と石獅子に関する簡単な説明が終わると駐車場脇にある一体目の石獅子と対面。
口を半開きにしてたてがみが目立ちます。何箇所かに穴が開いていて、若山さんのお話では石獅子を運ぶために開けたものではないかとのこと。移設される前は西南西を向いていたそう。
集落センタから少し下ったところに2体目の石獅子がありました。1体目と良くにていますが、左側のたてがみから下が欠け落ちているように見えます。
脇道を入ったところに「上江洲之殿(いーしぬとぅん)」がありました。上江洲家は尚巴志(しょうはし)の6男である尚布里(しょうふり)を祖先として祀った場所だそうです。入口に碑もありました。
3体目はすぐそばの民家の塀の横に安置されていました。ここは集落の東側だそうです。
ずんぐりした形で鼻が欠けているようです。
道路を挟んだ反対側には「安次富グスク(あしとぅグスク)」がありました。
少し歩いたところに尚布里(しょうふり)の墓がありました。
墓は小さく、石を切り出して作られていて表面に漆喰を塗ってあるようです。帰ろうとすると地元の方達が集まってきました。聴くと5年に一度、尚布里(しょうふり)を祀ることになっていて今日がその日だとのこと。準備された様々なお供えものを見せていただきました。
チラガーの迫力に驚いてしまいました。お礼を述べて次を目指します。
當山地区の4体目の石獅子は民家の庭先にある岩の上に南西に向けて設置されていました。ここは集落の北側だそうです。
次に隣の集落「屋嘉部」に向かいます。まず1体目は集落の南入口にある民家の庭先に設置されています。
下から見上げても良く判らないので庭先に入らせていただきました。
後ろ足が欠けているのか上を見上げているように見えます。
2体目は集落の北西にあり、かつては高いところにあったものが民家の畑の隅に設置されています。
3体目は集落の北側に設置されています。口の右側が欠けています。
この地区最後の4体目の石獅子は藪の中にありました。藪を掻き分けて進むと背中が見えてきました。
正面に回ると顔が見えました。かなり痛んでいます。
はるかエジプトに由来を持つ沖縄のシーサーはシルクロードを渡って中国から沖縄に伝わったようです。力の象徴、神的存在、守り神として、シーサーの概念や特質が民衆に広まるのは17世紀後半頃、日本では江戸時代徳川将軍家の統治下だった頃です。
シーサーと云うと陶製のものや漆喰シーサーなどが連想されますが、本来は災いを防ぐために村落の入り口に丈夫で頑丈な琉球石灰岩でできた石獅子を設置していました。以降、明治22年に赤瓦使用が解禁され民家に屋根獅子が瓦職人の手で作られるようになりました。それまでは赤瓦の建築は士族階級にしか許されてなかったのでシーサーは富の象徴でもあったわけです。
また、コンクリ屋根の普及とともにヤチムンサーが阿吽のシーサーを門柱に置くようになりました。何故、対になっているかの説はたくさんあります。家族を守る象徴として、お父さんお母さんを表現した。仏教の考えで阿吽にした。男は寡黙、女はおしゃべりといった沖縄の男女を表した。などなどあり、決してどの説が正しいということはなく地域ごとに違えば作者ごとに違います。元々、対という概念はなかったのですから沖縄の人の思いが後付され、今も沖縄独自の文化として愛され残されてきたのだと思います。
また、シーサーの名前の由来は沖縄でライオン、つまり獅子の事を指します。そして「獅子様」と呼ばれていたのが訛って「シーサー」と呼ばれるようになったのでないかと云われています。
最後に出発地点である當山集落センターまで戻って解散になりました。最後に若山さんの奥様が書かれた石獅子の本(サイン入り)を分けていただきました。
マニアックでとても面白いツアーだったと思います。今はシーサーが有名になってしまいましたが、シーサーの原型とも言える石獅子は村々を災いから守るために設置された正に守り神だったのでしょう。その素朴さは沖縄の自然信仰を現しているようです。
我が家には「スタジオde-jin」の石獅子があります。
こちらは最近いただいたもの。