最後の世界遺産

何度も首里城まで行っていても一度も立ち寄ることのなかった玉陵(たまうどぅん)に行きました。先日の那覇市歴史博物館と同様、那覇市在住で65歳以上であれば入場料が減額され、一人150円(二人で300円)でした。

玉陵は、1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、その後、第二尚氏王統の陵墓となりました。墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋となっています。創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には、墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られました。全体のつくりは、当時の板葺き屋根の宮殿を表した石造建造物になっています。墓域は2.442平方メートル。沖縄戦で大きな被害を受けましたが、1974年から3年余りの歳月をかけ、修復工事が行われ、往時の姿を取り戻して今日に至っています。
昭和47年5月15日に玉陵墓室石牆(たまうどぅんぼしつせきしょう)が国指定有形文化財建造物に、玉陵は国指定記念物史跡に指定されました。また、2000年12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されました。そして2018年12月25日(火曜)、玉陵が建造物として正式に国宝に指定されました。沖縄県内で建造物の国宝指定は初となります。

入口の石碑と看板

受付の建物の地下は玉陵の資料館があり、玉陵の中がどのようになっているか知ることができます。

図示するとこんな感じ。

内部の中に置かれた厨子に葬られている方の一覧もありました。

玉陵に向かう道。

玉陵入口です。この両側に玉陵を管理する番所が置かれていたそうです。

西の御番所が入口から玉陵に入る手前(玉陵に向かって右側)に置かれてことを表しています。

これに対して東の御番所は玉陵に向かって左側に置かれていたそうで、現在は復元された建物が建っています。

玉陵入口から内部を見た模様。

第一の門を通り向けると開けた場所があります。祭礼を催す場所なのかもしれません。石碑も建っていました。

この碑には玉陵に葬られるべき人々の名前が刻まれているそうです。

二番目の門を潜ると目の前に玉陵が見えます。写真は東側から見た全景。手前は井戸で洗骨用の水を汲むのかもしれません。地面には聖地である久高島から運ばれた珊瑚が敷き詰められています。

洗骨後の王と王妃の遺骨が安置される東室。沖縄戦で破壊され新しい石材で修復されたことが良く判ります。

遺骸を安置する中室。ここで白骨化するまで待ってから洗骨したそうです。

王と王妃以外の王族が葬られた西室。こちらも沖縄戦の被害を受けて修復されています。

西側から東を見るとこんな感じ。

琉球王朝だけでなく、琉球の精神世界を象徴している場所だと思いました。


ついでといっては失礼ですが、改めて園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)を観に行きました。今まで何度も前を通っていましたが、こちらもじっくり見ることはありませんでした。

園比屋武御嶽石門は、1519年、尚真王が八重山竹富島の西塘に命じてつくらせたものです。この御嶽は、国王が城から出かけるときに道中の無事を祈り、聞得大君の就任儀礼である「御新下り」の最初にお参りした場所です。
1945(昭和20)年、戦災を受けて大破しましたが、1956(昭和31)年琉球政府によってトラバーチン材を用いて復元されました。

正面から見るとこんな感じ。

この石門は園比屋武御嶽の入口で裏側に御嶽があったのでしょう。現在は小学校と幼稚園の敷地になっていて、少しだけ空間がありました。

石碑の横には聖地巡礼(東御廻り)に関する説明が掲示されており、ここ園比屋武御嶽からスタートしたことが判ります。


2年前に斎場御嶽を訪れてから少しずつ沖縄の精神世界が理解でき始めたように思います。